ボロネーゼ
H.O. さん
2024/03/07 投稿
ボロネーゼといっても訪れていたのは
イタリアではなくオランダ・アムステルダム。
東京駅のモデルにもなり立派にそびえ立つ割には
玄関口にティッシュ、食べ物、原型不明のゴミが数え切れないほどに散らかり、
「ああこれこれ、
カルチャーショックをしっかり受けるのも旅の醍醐味の一つだから」
などと無理に思い出に変えようとしたその場所は、
さっきまで乗っていた
ヨーロッパが誇る時速300km/hの高速鉄道ユーロスターの終着点、
アムステルダム中央駅だ。
ゴミの散乱くらい文化の違いであり
まあ仕方ないかと天を仰いだその上空には
ここアムステルダムに立地するオランダ最大の空港、
スキポール空港から世界中へと飛び立つ
離陸直後の旅客機が街行く人の真上を飛び、
その風圧と轟音は迫力満点、
ふるさと日本ではグライダーならともかく、
大型の旅客機がこんなに近くを飛ぶことはそうない。
これは図らずして珍しいものを見られた!やっぱり旅っていいな。
そう思った時だったか。
旅客機に向けたスマホのカメラ画面が曇った。
理由は簡単、レンズに1つの水滴が降りかかったからだ。
あれ、と言ったが先か大雨が街を包み込むのが早かったか、
すぐさま大粒の水滴たちが美しい街並みの視界を霞ませる。
なんださっきの風は飛行機じゃなくてただの大雨の前触れじゃないか!
そう自分の思い込みを反省しつつ、
右手には日本出発前に近所で購入した折りたたみ傘、
左手には前日までのお土産で破裂寸前のスーツケースを持ち、
飛行機並みの風圧を感じさせる19時の大雨の中、
アムステルダム中央駅を背に夕食を求めて街中へと歩みを進めた。
数件を窓の外から覗き見た後、
さすがに寒さに耐えられなくなりここにしようと入ったのは
何故かイタリアンレストラン兼バーだった。
パスタは日本でもポピュラーでなんだか安心感があるし、
オランダに到着した瞬間にイタリアンを食べたっていいよねと
また訳の分からぬ言い訳を思いつき入店したのち、
これなら読めるし食べたいかもと思ったボロネーゼを注文。
Googleレンズでメニューを翻訳する元気も残っておらず
普段なら他のメニューも見て決めたいが、
いかんせん寒さ・空腹・握力の限界でもういいやこれにしようといった感じでオーダーした。
料理到着までの待ち時間に店内トイレで用を足した後、
そういやスマホだってお腹が空いてるはずだと
足元の暗がりにあったコンセントを見逃すことなく充電アダプタを差し込み、
ちょうどその頃一緒に頼んでおいた野菜スープが到着した。
アムステルダムの洗礼で冷え切った身体に
ごろごろの具材入りスープは温かく、
ああ味噌汁じゃなくてもこんなにホッとするんだ、
助かった、ありがとうイタリア料理、ありがとうイタリア、
思わずここオランダでそんな言葉が出そうになった。
座った席が出入口のいちばん近くだった事もあり、
先ほどの冷たい風がドアの隙間からこちらに入り込んでくる。
おまけにドアの下に敷いてある吸水用のマットが
かえって開閉時にドアの下に引っかかり、
客が出入りするたびなかなかドアが閉まらず外気が中に吹き込んでくる。
店内ホール担当は愛想のいい
おそらくイタリア人の中年女性店員ただ1人のようで、
ドアの開閉がうまくいかないことに対して
こればかりはいくら愛想のいい店員でも
英語で何か独り言のように文句を言っていた。
野菜スープを食べ終えた後しばらくして
メインのボロネーゼが到着すると、
カラフルな景色が一瞬にして自分の眼前に広がったようだった。
トマトソースの赤と、中心に乗った付け合わせ野菜の緑色、
皿のふちに盛られた細いチーズの淡い黄色の共演が、
まるで視覚から疲れを癒すかのようで、
先程まで見ていた灰色空の記憶を頭の中から遠ざけ、
スープの温かさですっかり準備万端になった胃袋がついにパスタへのGOサインを出した。
その味はとてもまろやかで、美味しいことは言うまでもなく、
トマトを使いながらも舌を突き刺す特有の苦手な酸味が全くない。
途中で皿のふちに盛られたチーズを混ぜると、
温かいパスタの中でその黄色がゆっくりと溶け、
濃厚さが増しそしてボロネーゼのまろやかさを更に引き立てた。
あまりのうまさに感謝の気持ちが込み上げる。
ありがとうボロネーゼ、ありがとうイタリア、
そしてこの有り難さをより一層強めた
アムステルダムの気まぐれな天気にさえ感謝出来るほどに、
この時の私は旅する力を取り戻していた。
外の寒さも降雨も強風も、片手で重たいスーツケースを転がした疲れも、
これで全てが報われたって訳だ。
店からの帰りがけ、
出入口のマットとドアの挟まりに文句を言っていた女性店員が英語で話しかけてくれた。
「めちゃくちゃデカい荷物持ってますね。
どこからか旅行に来られてるんですか?」
「ええ、日本から来たんです。昨日までは別の国にいたんですけど。
今日はオランダ初日です。」
欧米人はなかなか英語の通じにくい日本人に少し当たりの強いイメージだった。
だが、その眼差しは、
また雨の中を歩かねばならない旅行者をたしかに心配しており、
しかしそれでいて旅の幸運を祈る笑顔は忘れずにこう言ってくれた。
「楽しんで。良い一日を」
自分が中学生ほどの頃からだろうか。
今まで英語の教科書で幾度となく出会ってきたこの英文が、
この時とても心強く、
また欧米人への勝手なイメージを恥ずかしく思わせるほどの温もりをもって、
この瞬間心に響き渡った。
と同時に、次なる歩みへのエネルギーが身体、
心に一気にみなぎってくるのがわかった。
「あなたも、良い一日を。」
私はそう返した後で、いま温まったこの心が、
この雨で冷え切らぬようにと、宿泊先へ向け歩みを早めたのだった。
オランダではトラムと言う路面電車のようなもので街を回れるようになっています。トラムへの乗車方法は、現地の方はアプリを使っていますが、旅行者でアプリを持っていない方は鉄道の駅構内等でGVBという表示のある券売機でトラムのチケットを購入可能です。どうぞご参考までに。