スポーツを通して世界に羽ばたける人材を。そして福島をスポーツの力で多くの人が集う町に。
齋藤亘さま
福島県立ふたば未来学園中学校バドミントン部監督。2006年チーム発足後、数々の国内外大会で優勝を経験。2007年~2009年には、後にオリンピック選手となるジュニア時代の桃田賢斗選手を指導。現在は「スポーツの力で、多くの人が集う町に」を掲げ新たな挑戦に向かっている。
指導者になって別の見方、別の喜びがあった
――まずは、現在の齋藤様の主な活動を教えてください。
齋藤さま:ふたば未来学園のバドミントン部の監督と、日本代表チームのU-16のジュニアナショナルチームのコーチも兼ねてやっているところです。
――どういう経緯で選手から指導者という流れになったのでしょうか?
齋藤さま:スポーツで世界に羽ばたくという構想がバドミントンと日本サッカー協会の方で2006年から立ち上がりました。福島県でも同じ意思を持って何かできないかということで、サッカー、バドミントン、ゴルフという3競技でスタートしたのがきっかけです。
その当時は富岡町の富岡高校と富岡第一中学校というところでバドミントンをやっていました。その後、創部から5年目で東日本大震災があった関係でサッカーは静岡に全部移転して、バドミントンは同じ福島県内の猪苗代というところに移りました。
これまで50を超える日本一を全国大会でとっているのですが、全部名前が違います。富岡第一中学校、猪苗代中学校、そしてふたば未来学園ということで、私も一緒に3つの学校を転々としました。
同じチームでありながら震災というものが契機になって、3つの名前でここまで活動してきたという流れです。
――ではプレイヤーをしながらというよりはそこで指導者という道に絞ったと?
齋藤さま:最初はプレイヤーをやりながらという形でやっていました。しかし、本格的にやるとなると2足のわらじを履けるものでもなくて。逆に選手がどんどん変わっていったり、指導すると本当にもう別なスポーツの見方というか、喜びというものを感じることができたと思います。
福島に戻ってきてくれた子供たちのために
――震災後は本当に大変な出来事があったと思いますが、その練習ができるまではどのぐらいの期間を要しましたか?
齋藤さま:震災の日は中学校の卒業式の日でした。全国大会に向けてちょうど練習をスタートしてすぐぐらい。福島第一原子力発電所からは10キロの場所だったので、翌日避難命令が出ました。本当に初めて体験することでもうどこが安全なのか、何ができるのかもわからず、 1週間ぐらい避難所を転々としたような感じで。
結局福島県内ではこれ以上はもう難しいだろうということで、遠くから来ている寮の生徒たちも各地元に戻っていて、次に集まったのが5月ですから丸2ヶ月間トレーニングはできませんでした。
――そこから集まったとしても、当然元通りというわけではないですよね。
齋藤さま:そうですね。当時だいたい中学高校で、50名ぐらいの部員がいましたが、10人以上の選手が戻ってこられず活動自退者が出てしまいました。こればっかりは安全だ、安心だとは本当に口が裂けても言えないような出来事だったので・・・それでも戻ってきてくれた子たちもいました。
なかには親御様と喧嘩してでも戻ってきた子がいまして、今思えば36人戻ってきたうちの6人がオリンピック選手になったんです。本当にもうそれぐらいの思いで戻ってきてくれた子だからこそ、そのあとのオリンピックレースの厳しさも乗り越えてくれたのかなと思いますね。
――本当に難しい状況で大変なことだらけだったと思いますが、なかでも一番難しかったことは何ですか?
齋藤さま:3月に地震があって、4月になって・・・4月1日というと、新たな門出として「さあ頑張るぞ」というスタートになるはずだったのですが、その時がもう何の見通しもたたなくて、何ができるんだろうということもわからなかった。子供たちにも何も言えなかったということがまず一つ。
もう一つは復興に向けた1日っていうのは、これが本当にきつかったです。富岡時代はちょうどバドミントン専用体育館ができて、まだ2年目でした。避難先の猪苗代ではなかなか練習場所がなく、5月になってゴールデンウィークの長期の休みには、なおさら使えなくなってしまって。
▲ 震災後の体育館 ▲
▲ 震災後のランニングコース ▲
――何ができるか分からない中で、どう自分を奮い立たせることができたのでしょうか?
齋藤さま:一番は福島に戻ってきてくれた子供たちのために。これが、一番大きかったです。その震災を契機に、私の指導観というものも大きく変わったような気がします。
震災前は本当に厳しくというものが基本だったと思います。しかし震災後、子供たちが自らバドミントンを求めて戻ってきて、2ヶ月後に初めて練習できた時の子供たちの表情はすごく生き生きしていました。
やっぱりスポーツの本質ってこれだよなと。楽しく、自分からやるということが何より大事なのだということに気づきました。
――元の生活にというところが大前提だったとは思いますが、やっぱり早く選手たちにプレーさせてあげたいという思いが強かったですか?
齋藤さま:そうですね。今まで当たり前にバドミントンができていた環境があって、専用体育館もあって、とても恵まれた状況だったのが突然一変しました。
再開後、初めて体育館に練習に行ったときは、ちょうどその体育館が避難所として閉鎖になった日でしたから、多くの人が体育館の床の上で避難生活をしていたあとでした。体育館の外にはもう大量の毛布だったり、ダンボールが積み上げられたような状態で、それを見た子供たちもバドミントンができることが本当にありがたいことで、人の支えがあってできるのだということに、子供ながらに気付いたと思います。
それが本当に、練習の質を上げてくれたなと思いますね。
経験に勝る学習なし。明るく楽しく全力で
――数々の国内外での大会でチャンピオンになっています。 2018年には全中で6冠、完全優勝をしていますが、そういった苦しい条件の中でその強さはどこから来たのでしょうか?
齋藤さま:やはり富岡町と猪苗代の両方で支えてくれた、そういう思いを背負っての大会ということが大きかったです。ここにかける思いっていうのは、本当に大きな力になったと思います。
すべては心から始まる、そんな体験ができました。
猪苗代に避難してからは練習場所もなくて、練習量も確保できないなかでも、本当に人が温かかった。心の温かさ、豊かさというものに子供たちが気づけたのかなと思います。
――それこそ直近のインドネシアでの世界大会では男子シングルスで優勝、3位入賞されてます。こちらはどんな大会でしたか。
齋藤さま:ジュニアの世界大会では、一番グレードの高い大会です。夏のシーズンが始まるまで力試しの場として毎年挑戦している大会の1つです。今では日本のジュニアのレベルが年々上がっていて、その理由の1つに国際的な経験が大きいかなと。
ジュニアの世代は本当にこの経験するということが一番の学びだと思っていますので、私も「経験に勝る学習なし」ということが一番大切にしている言葉なんです。
そういった意味でも、海外の全然違うバドミントンを戦って新たな感性というかそういうものを見つけられた大会でした。
――日本と海外のバドミントンではどういう違いがありますか?
齋藤さま:プレースタイル自体が変わってきます。日本にはない、日本とは違う駆けひきがあって、特にこのインドネシアは、国技がバドミントンということもあります。
本当に奥が深いバドミントンをする。どちらかというと勢いで押し切るのが日本のバドミントンなんですけど、向こうは駆け引きがすごい。日本にいるよりも試合時間が2倍3倍ぐらいの長さに感じるんです。
ここに来て、これを出してくるのかと。ジュニアなのに大人みたいな考え方をしてくるので、日本のベスト4ぐらいの選手層が20人30人といます。
――バドミントンの駆け引きとは、どういったところにあるのでしょうか?
齋藤さま:バドミントンというものは攻めて勝つのではなく相手のミスを誘って1本取るという性質があります。日本だとどうしても勢いで攻めることが多い。でも向こうでは相手にミスを誘われる。ミスをさせられるんです。
相手に攻めさせて、疲れさせたところを一気に畳みかける。というスタイルです。
――攻めさせる、という点は確かに不思議なところですね。強さを維持する、勝ち続けるために、どういう思いで指導されていますか?
齋藤さま:うちのチームのモットーが、「明るく楽しく全力で」ということを大事にしてます。どうせやるんだったら、自分からやろう。どうせやるんだったら、楽しくやろうね、と。
やらされてる中での全力では、いざという時に頑張り抜けないと思います。自分で責任を持つ、明るく楽しくというのは、自分から頑張るぞっていう気持ちを作ったり、自分から楽しさを見つけて全力でやる。これって本当に一番大事だなと思っています。
震災後の初めての練習の時、バドミントンができることの喜びを感じている生徒たちは、本当に明るく楽しく全力でした。
震災後すぐの大会は 2ヶ月間全く練習もできず、3ヶ月後にあった全国大会では一気に6種目中、5種目優勝できたんです。やはり自分からやるという気持ちに気づけたことが大きかったなと。
▲ 練習中の選手たち ▲
▲ 猪苗代転校初日の選手たち ▲
――スポーツをやる中で本当に「最後は気持ちだ」というシーンがあると思います。それは精神論の話ではなくて、メンタリティというか、技術や実力がそろったうえでの最後のピース、という部分はどのスポーツにもあるなと感じます。
齋藤さま:どんな練習をやるかも大切ですが、その練習にどう取り組むかが大きく変わってくると思いますね。
――指導者に切り替わる過程で難しいことがいっぱいあったと思います。苦労した点はどういったところにありましたか?
齋藤さま:初期の頃はやはり厳しく、ストイックな部分が強かったです。ただ、それだとここぞというところで勝ちきれませんでした。そのなかで選手たちが力を発揮できないで終わるということがとても悔しくて辛くて、残念でした。
振り返ると練習の中でのびのびできていなかったという点は大きかったと思います。
だからこそどうやったら、選手たちが生き生きとプレーできるのだろうか、自分の力を最大限に発揮できるのだろかという悩みはありました。
どんな状況にも適応する「しなやかさ」がカギ
――そういったなかで「スポーツを通して、世界に羽ばたける人材というところを目指していらっしゃると思います。バドミントンで世界に羽ばたける選手とはどんな選手なのでしょうか?
齋藤さま:一番はやっぱり「しなやかさ」だと思っています。体だけではなく頭のしなやかさです。バドミントンは対人競技なので相手のプレーやそのときの環境とコンディションに対応して、自分の良さを出していくという順番が絶対必要だと思います。
日本はやっぱり恵まれているので、食事にしても体育館にしてもそうです。もう海外に行ったらその辺に動物はいるし、暑かったり寒かったり風は吹くし・・・それらをひとつひとつ嫌がっていたら勝負になりません。
それすらも楽しむぐらいの感覚でいられるくらいしなやかな選手がやはりいい選手だと思いますし、伸びていく選手だと思います。
――そういった頭の柔軟さを手に入れるために世界での経験が役立つわけですよね?
齋藤さま:はい、本当に最初は練習場所がないという消極的な状況から始まった海外遠征ですが、そういった大会に行って大きく変わる選手が、 1人2人います。それが例えばオリンピックのミックスダブルスで銅メダルをとった渡辺東野ペアです。
渡辺選手は最初は1勝もできなくて、日本選手団の中でも男子チームは1勝しかできませんでした。そのなかでもう1回、もっと試合がしたいと意欲をもってやっていくことで、ハングリー精神のようなものが芽生えました。
――まさにすべては心から、の部分が出ましたね。
齋藤さま:そうなんです。一方東野選手は、力はありながら日本国内だと本当の力が出し切れないところがありました。でも、海外に行ったら「え、こんなにできるんだ、こんなのびのびできるんじゃないか」というようなプレーができていきなりメダルを取ったんですよ。
――心の部分の何がそうさせたのでしょうか?
齋藤さま:バドミントンが楽しかったのだと思います。もうのびのびやって、ワクワクしながらやっていたと思うんです。そこから本当に、あの2人は大きく変わったような気がします。
――世界を意識する、世界基準というところも何か意識はされていますか?
齋藤さま:ありがたいことにバドミントンの本場であるインドネシアからコーチが来てくれています。そういったところで我々も含めて海外のバドミントンを意識することができます。
自分の頭の中をバージョンアップできるというところは、本当に一番大事ですね。やはり指導者がしなやかでなければと思います。
――インドネシアのバドミントンのアイデンティティというかそういったものを取り入れられたのでしょうか?
齋藤さま:もちろんインドネシアや中国といったところが世界で強いんですけど、日本のバドミントンの良さもあるのでいいとこどりができますね。
日本人の良さを活かすために、この部分をこう取り入れていくというところが、指導者としても必要なことだと思っています。
――そうすることによってプレーヤーの引き出しが増えると?
齋藤さま:はい、日本人には日本人の良さがベースとしてあるので、その良さをより活かすための1つの手段にしていきたいなと思います。
ふたば未来学園から世界で活躍する選手を
――スポーツの力で多くの人が集う街ということで、 スポーツと街づくりというところも切っても切れないところがあるなと感じています。例えば、具体的にどんな活動をされているのか教えていただけますか?
齋藤さま:まずはバドミントンを通してまた人が来てくれて、ここは安全だよ、安心だよ、とみんなに分かってもらえたらという想いがあります。その想いからうまれたのが富岡世界プロジェクトという大会です。
大会自体はもう3年4年続けているのですが、国際大会を5月のゴールデンウィークに行っています。去年はイスラエル、台湾、中国から来てもらって、今年もそこにニュージーランド、カナダが増えて総勢 100人ほどの海外選手が来てくれました。
富岡町を舞台にバドミントン国際大会を開いて、この地の安心安全というものが、少しでも広がっていってもらえるとありがたいと思っています。
――齋藤様の教え子でもありオリンピック選手の桃田賢斗選手もいらっしゃっていました。
齋藤さま:はい、この富岡世界プロジェクトの趣旨に賛同してくれて、海外の選手相手にも講習会をしてくれました。バドミントンを通して復興に尽力していきたいなと思っています。
――新たな街、新たな挑戦というところに行かれると思います。今後どんなことをしていきたいですか?
齋藤さま:自分がこんなチームで、バドミントンしたかったなっていうチームを作ることですね。
私が今の選手たちの年齢のときには、バドミントンを練習する、指導する土壌がありませんでした。そういったところをこれからこのチーム作りの一番の根本に掲げていきたいと思っています。
そして、もう1つは今6人のオリンピック選手が出ていますが、その選手たちはすべて富岡時代の卒業生で、まだふたば未来学園からは出ていません。これからふたば未来学園を卒業して、オリンピック選手、世界で活躍する選手を育てていきたいなと思っています。
――齋藤様、本日はありがとうございました。